太陽の塔

2021-04-03から04の二日で森見登美彦『太陽の塔』を読んだ。

物凄く面白い。

タイトルの割に太陽の塔の出番は少ない。が、描写はすごいよかった。

私の場合、まずそこに太陽の塔があった。太陽の塔には人間の手を思わせる余地がなかった。それは異次元宇宙の彼方かなたから突如飛来し、ずうんと大地に降り立って動かなくなり、もう我々人類には手のほどこしようもなくなってしまったという雰囲気が漂っていた。岡本太郎なる人物も、大阪万博という過去のお祭り騒ぎも、あるいは日本の戦後史なども関係がない。むくむくと盛り上がる緑の森の向こうに、ただすべてを超越して、太陽の塔は立っている。
 一度見れば、人々はその異様な大きさと形に圧倒される。あまりに滑らかに湾曲する体格、にゅうっと両側に突き出す溶けたような腕、天頂に輝く金色の顔、腹部にわだかまる灰色のふくれっつら、背後にある不気味で平面的な黒い顔、ことごとく我々の神経をき乱さぬものはない。何よりも、常軌を逸したあきれるばかりの大きさである。
「なんじゃこりゃあ」と彼らは言うことであろう。しかし、それで満足して太陽の塔の前を立ち去り、「あれは確かにヘンテコなものであった」と吹聴ふいちょうするのでは足りないのだ。「あれは一度見てみるべきだよ」なんぞと暢気のんきに言っているようでは、全然、からっきし、足りない。
 もう一度、もう二度、もう三度、太陽の塔のもとへ立ち返りたまえ。
 バスや電車で万博公園に近づくにつれて、何か言葉に尽くせぬ気配が迫ってくるだろう。「ああ、もうすぐ現れる」と思い、心の底で怖がっている自分に気づきはしまいか。そして視界に太陽の塔が現れた途端、自分がちっとも太陽の塔に慣れることができないことに気づくだろう。
「つねに新鮮だ」
 そんな優雅な言葉では足りない。つねに異様で、つねに恐ろしく、つねに偉大で、つねに何かがおかしい。何度も訪れるたびに、慣れるどころか、ますます怖くなる。太陽の塔が視界に入ってくるまで待つことが、たまらなく不安になる。その不安が裏切られることはない。いざ見れば、きっと前回より大きな違和感があなたを襲うからだ。太陽の塔は、見るたびに大きくなるだろう。決して小さくはならないのである。一度見てみるべきだとは言わない。何度でも訪れたまえ。そして、ふつふつと体内に湧き出してくる異次元宇宙の気配に震えたまえ。世人はすべからく偉大なる太陽の塔の前にひざを屈し「なんじゃこりゃあ!」と何度でも何度でも心置きなく叫ぶべし。異界への入り口はそこにある。

大仰な言葉で太陽の塔がすごいということを言っている。何がすごいのかは言っておらず、どうすごいのかを言っている。視点人物がすごいと思っていることは分かるが、どうすごいか、について説得力は別にない。普通、よくないと言われる描写だ。と、思う……。少なくともビジネスの文脈ではこんな言い方をしたら怒られる(か、黙って評価を下げられる)。しかしここに至るまでで主人公が詳しく描写すること、しないことが読者に充分分かっているので、この描写を読むだけで、何となくこんな感じかな、という感覚を抱けるようにちゃんとなっている。

森見登美彦は『四畳半神話大系』を読んだことがあるだけだが(そう言えば『夜は短し歩けよ乙女』のオーディオブックを買って、冒頭ちょっとだけ聴いてそのままにしている)、『太陽の塔』の完成度の高さがすごいなと思っていたら、森見ファンの知人も最高傑作と言っていたので、やっぱりだ。他は更なる切っ掛けなしには読まないだろうと思う。